目標に向け行動しよう〜古田流 かっこいい大人の行動哲学〜 古田敦也さんの講 演メモ

古田敦也さんが、2013.1.18岡山シンフォニーでの、岡山県幼少中高PTA連合会連絡協議会の研修大会で講演を行う。以下はそのメモ。
両親は宇和島の奥で生まれ、大阪に。自分は大阪生まれ。親父から野球をやれと言われた。父は柔道してきた人。柔道は金にならん。野球なら金になるかもしれんと。近所の子を集めて野球をさせていった。父はボールも投げれなかった。僕を載せて腕立てをする父。台風の日に来いといって川のそばに行き木に登らせる。こわいだろう?だから台風の日は川のそばに行っちゃダメだと。挑戦、冒険をさせていった父。母は150cmほど。見えるものは全て食べろと。自分に似ると普通だったら小さくなるかもしれないと。1斤のパンを食べ切らないと学校に行かせてもらえなかった。小学校三年生の時野球チームに入り、キャッチャーがいないから誰かやれないかという監督に、隣の金田くんがこいつがやれると自分を指さした。監督に問われ、わからないまま、はいといった。当時は走れるデブだった。母は麻雀屋の賄いをしていて、夜十時まで帰らなかった。試合を見に来てくれる両親に活躍を見てもらいたく頑張った。家から一番近い県立に行った。私立高校からも誘いがあったが、ガラが悪いし、プロに行くわけでもないんだからと、父は県立にいけと。

大学も普通に受験、立命と関大に受かる。家から通えるという事で関大に行こうと担任兼野球部監督に伝えたあと、担任のところに、立命の野球部監督から電話があった。その監督は高校野球の気になる試合をチェックに行ったら早く到着したため、その前の試合がまだ行われていて無名の自分のことをたまたまチェックしていたらしい。誘ってもないのに合格してるからと電話をかけてきた。高校の監督もどきの体育の先生は、有名な立命の監督によう断らないから断るなら自分で断れと。仕方なく自分で立命に行ったら、よう来てくれたと。折角だからちょっと練習してみたら?とやってみるとやれそうな感じも。断り切れずにいると、部員に飯でもと連れて行ってやれと促し、飲めや歌えやでその夜を過ごす。いいなあ、と思う。翌朝、やっぱり京都やなと考え出した。母にも野球を続けたいと申し出る。母は、「アッちゃん、ウチラは田舎から出て誰にも負けずにやろうとやってきた。お金がないから諦めろということはできない。何とかするから思うようにやれ」といってくれた。ところが入学すると初日から殴る蹴るの世界だった。先輩後輩も厳しかった。最初の一ヶ月でかなりやめた。やめなかったのは、おかんにあそこまで言わせて入ったから、ケツを割ることはできなかった。1年過ぎるとあとは楽だった。四年の時には、ジャパンの選手にもなり、ドラフト候補にも上がってきた。関西のスポーツ紙は阪神一色。ドラフトの時、同輩では長嶋一茂一色。でも関西では古田がどーんと出て、その隅に「長嶋も」と小さく出ていた。72名の中に上がらなかった。ひな壇にいてテレビを見ていたのにカメラマンや記者から冷たい視線。監督も動揺していて、「古田、とりあえず旅にでろ」と。就職も決まってなかった。家でも近所の人を集めてテレビを見ていた。TV局も来ていた。挫折を感じた。

夜、母からの電話。こんな事で負けたらイカンと。母も泣き出した。「あっちゃん、プロは冷たいところや」と。前日電話で「取る」と言ってたのに。自分は絶対意地でもプロに入らろうと決意。そんな時、トヨタ自動車から声がかかった。喜んでいくと返事。野球に力を入れたいと。工場で仕事をし昼から野球の練習。2年後にドラフトにとってもらわないと、と考えいろいろ考えた。プロに注目されるために、同年輩の中でうまいと見てもらうように、オリンピックのメンバーになること、逆算して、トヨタでレギュラーを、そのために今何ができるか?野球だけでなく、生活面でもあいつに任せておけばと言われるように行動した。

ドラフトの前、二年前と同じ球団から母のところに電話があった。「あんた取りたかったら、じぶんでとりー」と言ってガチャンと電話を切ってやったという。近所も呼ばなかった。自分の弱点はメガネをかけていた。めがねをかけて成功した選手がいなかった。乱視が強かった。メガネをかけているということだけではねられるのはくやしい。めがねをかけている選手が活躍できることを証明したかった。ヤクルトが二位で指名してくれた。母も決まったら知らせてくれといったから、電話をかけた。「ヤクルトに行くわ」と伝えると、おかんは、「トヨタはいい会社やから、よ〜考えや」といわれたのは、ちょっとがくっと来た。野村克也監督は、一難さってまた一難という感じであった。あの人はカメラを向けたらぼやくのではなく、四六時中ぼやいていた。野村監督のミーティングは、今年のチームの方針はこうだというのではなく、教育ということで高めてきた。言葉の暴力は常だった。野村と自分はどちらも一年目だった。怖い監督が来たぞと新年のあいさつ。戦々恐々。ダラーと入ってきて、所信表明どころか、何も言わず、ボードに大きく、「耳、従」。「おいこれが分かるもの手をあげー」と怒鳴った。「情報を集めよ。ということだ。耳を使って情報を集めることによって人間性を高めることが、野球の力がつく」と。このに文字で二時間しゃべって出ていった。2日目も、挨拶もなく、「仕事とは」と書いてペンをおいて振り向いたので、当てられたら厄介とみんなが一斉に下を向いた。「野球」と答えたら、「そんな事わかっとる、それをどうするかということじゃ」と。「関わる人を喜ばせることだ、そのために何をするか、チームが勝たないといけない、組織での利益が最優先、チームが勝つためにどうするか、だ」。

社会人としての立ち位置、組織としてどうするか、二週間くらいそんなことが続いた。この人についていけば勝てそうだと思うようになった。
【質問に対して】
すごいと思ったバッターは松井。松井の第一号は、うちだった。目の前に立つ松井は高校生出とはとても思えない顔だった。パワーがあった。ヒットのイチローよりは一発で点を取る松井は怖かった。

キャッチャーをしててよかったと思うことは?いろんな事を考えている読みを外すのがやりがい。心理の駆け引き、相手の裏を取る。でも新庄だけは読めなかった。カーブ、カーブでツーストライクを取られたら、次もカーブを待っていると考える。そこでストライクを投げさすと、ホームランを打たれた。あるときその時のことを聞いたら、「なんにも考えていない、見えたボールだけを撃っている」と言ったのには、まいった。

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