この一揆は、岡山県の北部で江戸時代の享保年間に実際に起こった一揆です。享保年間といえば、テレビの時代劇などで『暴れん坊将軍』とか『大岡越前』などで登場する8代将軍徳川吉宗の時代です。どうしてこのような事が起きたのでしょう。
 目次の4〜6については、地元の湯原町で作成された冊子を一部省略しながらまとめました。学校で生徒たちがこの『山中一揆』をインターネットで検索しても、十分に調べることができないということに気づきました。そこでいままで自分で作成していた資料などもこのような形にして参考になればと思いまとめてみました。少しでも多くの人に知っていただければ幸いと思います。
《目次》
1.江戸時代の一揆
2.江戸時代の美作
3.災害と闘う農民
4.山中一揆のあらまし
5.山中一揆の処刑者一覧
6.山中一揆ゆかりの地(写真は計画中)
7.庄屋と百姓
8.山中一揆前後の領地地図

1.
江戸時代の一揆

江戸時代には、たくさんの一揆が起こりました。支配者に苦しめられたようすがうかがえるとともに、自分たちの生活をよりよいものにするために、自分たちの命をかけて立ちあがろうとする姿勢が示されていることでもあります。その一揆にはどのようなものがあるかをまとめてみました。

『百姓一揆と義民伝承』横山十四男著(教育社歴史新書<日本史>85、1977年10月15日第1刷、1986年7月10日新装4刷)には、山中一揆の前半は「強訴」、そして後半は「蜂起」と記されています。

(1)一揆の種類

@不穏(ふおん)

実力行使に出ようとして動いたが、集会を開いただけで終わったとか、一揆らしい気配は感じられたが、ないようが定かでないもの。

A愁訴(しゅうそ)

 支配者側の理不尽なやり方に対して、嘆き訴え出ること。権力との対決姿勢は、あくまで内に秘められた形をとり、表面は定められた手続きを踏んでの訴願である。合法的とはいえ、張本人が処罰されることもある。

B越訴(おっそ)

 直訴(じきそ)とも言う。一般農民⇒庄屋⇒大庄屋⇒代官・郡奉行⇒家老・藩主⇒幕府老中・将軍という順序を飛び越えて、直接に藩主とか老中・将軍に訴状を出すこと。禁止されていたから事の成否にかかわらず訴願人は処刑される。

C逃散(ちょうさん)

 集団で定められた居住地を逃れ去るという消極的な抗議方法であるが、厳禁された体制下で徒党を組んで行う逃散は、やはり命がけの抗議である。

D強訴(ごうそ)

 多数の百姓が、団結の力によって領主側を圧倒し、強引に訴願内容を認めさせること。形は、お上に願い訴えあげる方法をとっても、力と力との対決である。山中一揆の前半がこれにあたる(『百姓一揆と義民伝承』横山十四男著)。

E打ちこわし

 直接的には、領主に対して訴状を出したり要求事項を掲げるのではなく、特権を持って暴利を貪る富裕商人や、不当な役得を得ている村役人などの家を打ち壊すことである。江戸後期になると、藩が商人・村役人らの暴利・不正と通じていたり、または公正な統治能力を失ってきて、農民たちが自分たちの手で不正を暴こうとして非常手段に出た形である。

F蜂起(ほうき)

 蜂が巣から飛び立つように、農民が一斉に群がり立つ様子を示している。初期の島原の乱のように領主権力との対決姿勢をはっきり打ち出したものや、後期に見られる打ちこわしの中で一国とか一藩全域に及ぶような規模の大きなものをいう。山中一揆の後半がこれにあたる(『百姓一揆と義民伝承』横山十四男著)。


《目次へ》

(2)主なできごとと一揆の種類別件数

江戸時代の主なできごとをまとめ、百姓一揆の発生件数がどのようになっているかをまとめてみる。この資料は横山十四男著『百姓一揆と義民伝承』(教育社歴史新書)を参考にまとめた。中学校の歴史教科書などでは、毎年の発生件数のグラフが出ているが、このように4〜50年の期間をまとめてみると、江戸時代の後半により多くの百姓一揆が発生していることがわかる。

一揆件数のグラフを見る

期間 おもなできごと 不穏 愁訴 越訴 逃散 強訴 打ちこわし 蜂起 期間総数 年平均件数
第1期
慶長・寛永期
1590(天正18)年〜1639(寛永16)(50年間)
豊臣秀吉の全国平定(1590年)
島原の乱(1637年)
鎖国の完成(1639年)
7573958120251983.9
第2期
慶安・寛文・延宝期
1640(寛永17)年〜1679(延宝7)(40年間)
田畑永代売買を禁止(1643年)
慶安の御触書(1649年)
分地制限令(1673年)
849574525001844.6
第3期
元禄・正徳期
1680(延宝8)年〜1719(享保4)(40年間)
徳川綱吉が5代将軍となる(1680年)
新井白石の正徳の治が始まる(1709年)
徳川吉宗が8代将軍となる(1716年)
享保の改革(1716〜1745年)
15162772454332466.2
第4期
享保・宝暦期
1720(享保5)年〜1769(明和6)(50年間)
公事方御定書、徒党・強訴を禁止(1720年)
山中一揆(蜂起)が起こる(1726年)
享保の大飢饉(1732年)
百姓の強訴を重ねて厳禁(1750年)
4426112247163501153210.6
第5期
天明・寛政・化政期
1770(明和7)年〜1829(文政12)(60年間)
強訴・徒党・逃散などの防止に密告制を採用(1770年)
田沼意次が老中となる(1772年)
天明の大飢饉(1782年)
松平定信が老中となる(1787年)
寛政の改革(1787〜93年)
134373131362601301481313.6
第6期
天保・幕末・維新期
1830(天保1)年〜1871(明治4)(42年間)
天保の大飢饉(1833年)
大塩平八郎の乱(1837年)
天保の改革(1841〜43年)
ペリー来航(1853年)
渋染一揆(強訴)が起こる(1856年)
明治政府の成立(1868年)
2081551262026922525102825.0

山中一揆は、上の表からも江戸時代の名将軍として後世にTV時代劇などでよく登場する8代将軍徳川吉宗の時代だということがわかる。幕府にとっては、次々と改革をしてよかったのかもしれないが、百姓民衆からすれば、年貢の引き上げにつながりかなり苦しめられたのであろう。それが百姓一揆の増加という形で現れているのであろう。
《目次へ》

2.
江戸時代の美作
 

岡山県は、備前国・備中国・美作国の三つに分かれていました。山中一揆が起こった舞台は岡山県北部の美作です。この地域の江戸時代のようすがどうであったのかをまず簡単にまとめておきたいと思います。

(1)小早川秀秋の時代(1600(慶長5)年〜1602(慶長7)年

 関ケ原の戦い以後,2年間。美作・備前の両国の約50万石。死亡,断絶。

(2)津山森藩の時代(1603(慶長8)年〜)

藩 主おもな政治石高など参考事項
初代
森 忠政
1603(慶長8)年 美作18万6500石を拝領。3月21日入国。
1604(慶長9)年 津山築城。
1616(元和2)年に津山城完成。
領内を総検地。
1603(慶長8)年に 18万6500石だった
この間に藩主導で新田開発が行われた。いくつかあげると
2代
森 長継
1634(寛永11)年 藩主となる
藩制が整備される。
1649(慶安2)年 苫西郡布原台地の開発
1653(承応3)〜85(貞享)年 平坦部の村落を丘陵地に強制移転させる
1664(寛文4)には 4万2700石増加
3代
森 長武
1674(延宝2)年 藩主となる
藩主権力の独裁志向・・・家中の取締りを強化
藩財政の補強・・・農村支配の強化
・隠し田畠の摘発
4代
森 長成
1685(貞享2)年 藩主となる
家中に対して簡略を命ずる。・・・監察を強化する
家来員数の削減
衣類は紬・木綿のほかは停止。
1695(元禄8)年 江戸御伝普請として「犬小屋の建設」を命じられる。
このときの出費が 銀2,554貫余り(42,570両) 米289石
1697(元禄10)年 長成が病死した後、養子になった関衆利(あつとし)が,江戸にお目見えの途上で乱心。その結果、森家はお家断絶。
「犬小屋建設」は5代将軍徳川綱吉の生類憐れみの令
1697(元禄10)年には 25万9300石に増加

(3)津山松平藩の時代

藩主年代できごと
1697(元禄10)年幕府が美作国を支配・・・代官4人が来る。
初代
松平長矩(まつだいらながのり)
1698(元禄11)年 津山松平藩が成立。長矩は家康のひ孫
1月 津山を中心に10万石が長矩に与えられる。
5月 津山城の受け渡しが終わる。
幕府が英田郡倉敷村(美作町林野)に代官所を置き,美作国中の天領を治めさせた。
高倉騒動(税法改正の一揆)がおこり,8人が斬罪。
1699(元禄12)年 領内の大庄屋を20人とし,年俸米15石を支給するようになる。
1717(享保2)年 大庄屋に苗字・帯刀・騎馬を許した。
2代
松平浅五郎
1721(享保6)年 6歳の浅五郎が2代目藩主となる。
1725(享保10)年 美作の天領で定免制施行に反対する強訴が起こった。
1726(享保11)年 浅五郎が死亡。
山中一揆が起こる。(2人が磔,50余人死罪)
このころ藩内に192カ村,人口6万9,497人,城下の町人1万人。
藩主
長熙(ながひろ)
1727(享保12)年 幕府が津山藩の領地を半分の5万石に減らす。
幕府が久世(今の真庭郡久世町)に代官所を置き,天領となった5万石の地を支配させた。
1739(元文4)年 美作天領で非人騒動が起こった。(勝北非人騒動)
1764(明和元)年 三浦明次が真島郡高田(勝山町)2万3,000石を与えられ,初代勝山藩主となる。真島郡92カ村。
1817(文化14)年 11代将軍徳川家斉(いえなり)の第16子である銀之助を養子に迎え,10万石に復帰し,久世代官所を廃止。

(以上は『岡山県史津山藩文書』『岡山県大百科』を参考にまとめる。) 《目次へ》

3.
災害と闘う農民
 

寛文年間(1660〜)から江戸末期までのおよそ200年間に起きた天災や飢饉は,50数回におよび,百姓は災害との闘いの連続であった。
山中一揆が起こった1726(享保11)年前後のこの地方の災害をあげてみよう。この中で月日まで記録されているところについては私のサイト内の旧暦-西暦の相互変換 ※ (以下、と表示)を利用して現在世界各国で使用されているカレンダーに基づいて西暦表示をしてみた。

1701(元禄14)年 大ひょうが降り,麦作が凶作。
1702(元禄15)年 美作・備前・備中に暴風雨・洪水・高潮。
津山藩内の家屋倒壊・流出520戸。
1708(宝永5)年
5月3日(西暦 1708年 6月 20日)
重さ3〜4匁(10数グラム)もある大ひょうが降り,麦作をはじめ春野菜等が皆無となる。
1710(宝永7)年 津山地方に大地震。多くの死者が出る。
1716(享保元)年 美作に大飢饉があり,津山領内の飢民は1万2,000余人におよび,津山藩は城下および久世村に救護所を設け、麦,塩などを給与。
1718(享保3)年
5月3日(西暦 1718年 6月 1日)
大霜が降り,畑作をいため,稲苗もいたみ,田植え,満足にできず。
1720(享保5)年 6月から7月にかけて(もし6月20日を西暦に直してみると西暦 1720年 7月 25日となる),27日間,日照が続き,水田は水不足のためひび割れとなり畑作も枯れ死寸前となる。
8月にはいると雨が多く,田は青できとなり,見入りが心配されている矢先、
9月13日(西暦 1720年 10月 14日),大霜が降る。干害と霜害とにより大凶作となる。
10月,百姓の多くが津山に嘆願に出かける。
1721(享保6)年 前年の干害,早冷えで,農作物は収獲皆無の状態になり,百姓は木の実,草の根でようやく命をつないでいた。
7月2日(西暦 1721年 7月 25日),豪雨に見舞われ勝山から美甘,新庄の川筋は,橋は全部押し流され,道は削り取られてまったく交通不能となった。
1724(享保9)年 津山地方に大雨,洪水。
1725(享保10)年 美作では5月末(5月25日ごろを西暦に直すと西暦 1725年 7月 5日)から8月はじめ(8月5日を西暦に直すと西暦 1725年 9月 11日)まで降雨がない大干ばつ。
1726(享保11)年 7,8月の2ヶ月(7月1日を西暦に直すと西暦 1726年 7月 29日、8月30日を西暦に直すと西暦 1726年 9月 25日),少しも雨が降らぬという干害の年になる。
山中一揆が起こる。
1729(享保14)年 7月14日,15日の2日間(西暦 1729年 8月 8日、9日),稲の開花時、大風が吹き,大損害が見こまれる。
9月に入ってから雨が降り続き,9日(西暦 1729年 10月 1日)になると大雨となり,やがて大洪水となり,川筋の道に決壊場所が多くできて,25日間,交通が止まる。
1731(享保16)年 美作にひょうが降り,特に東北条,西北条の両郡の被害が甚大であった。
1732(享保17)年 春から天候も順調で,かなりの豊作が見こまれていたが,7月20日(西暦 1732年 9月 8日)ごろ出穂の最中に,ウンカが大発生したために大凶作となった。
1733(享保18)年 前年同様,ウンカが発生した。2年続きの凶作のために,百姓の食料はまったく尽き果て,木の実,草の根でようやくその日その日をしのいでいたが,冬場に向かうとそれさえも手に入らなくなり,飢え死にするのを待つばかりとなる。

(『美甘村史』『勝山町史』『岡山県大百科』より)
以上のように,山中一揆が起こる前は毎年のように災害が起こり,百姓たちの生活の困難さがわかる。

 《目次へ》

4.
山中一揆のあらまし
 

日を追っての経過は山中一揆の経過をご覧ください

この中でも月日まで記録されているところについては私のサイト内の旧暦-西暦の相互変換 ※ (以下、と表示)を利用して現在世界各国で使用されているカレンダーに基づいて西暦表示をしてみた。

(1)ことのおこり

森藩の後,元禄11(1698)年正月,松平長矩が10万石を与えられ津山城に入ってきた。それに伴い真島郡・大庭郡(今の真庭郡)もその支配下に置かれるようになった。

2代目藩主の松平浅五郎は,6歳で家を継いだが,その頃の藩の財政は,極端に苦しくなっていた。さらに農村部では階層が細かく分かれ小農民の割合が増えていた。それに加えて,自然災害によって餓死するものが続出していた。その一方で,地主化した特権的村役人が地元の特権商人と組んで農政上の不正を働くということもおこり,農政が緩んでしまっていた。また藩の中心をなす上級家臣による不正行為とか江戸屋敷の度重なる焼失など藩にとっては困った事態が表面化してきていた。

享保11(1726)年,津山藩は幕府の指導で藩財政の改革に乗り出し,久保新平を勘定奉行に任命した。久保は,家臣の俸禄支給の延期・削減をおこなうことで藩の支出を厳しく制限し,農民の年貢負担を強化することで収入を増やしていきながら,藩財政の再建を図ろうとした。当時,裏作の麦が農民の取り分であり,この収獲がなければ農民は命をつなぐことができない状態であった。そこに目をつけた久保は「今年に限り10月15日(西暦 1726年 11月 8日までに年貢を完納すること,それまでは麦播きを一切禁止する」という命令を出した。命令はそれだけではなく,「4歩の加免(年貢を4%増やす)」ということも付け加えられた。これらは,代官・大庄屋・庄屋を通じて手厳しく取り立てを強行していき,納めることができない農民には鋤・鍬を封印をするということも行われた。その結果,例年よりも1ヶ月以上も繰り上げた納期にもかかわらず,予定の86%を納めさせるまでになった。

ちょうどその頃,11歳になった藩主浅五郎が重病になり,明日をも知れない状態でした。後継ぎがない幼君が死去すると,松平家は潰される(改易)か,領分が減らされる(減封)か,国替えになるかもしれないという不安が重なり,藩内外は狂気じみたものでした。

11月11日(西暦 1726年 12月 4日),ついに藩主浅五郎が江戸屋敷で死亡した。「藩は蔵の米を売り払うらしい。」といううわさが飛び,農民たちは動揺しはじめました。11月12日(西暦 1726年 12月 5日)夜,大庭郡河内村の大庄屋・中庄屋ら3人が,西原(落合町西原)の米倉に納められていた年貢米のうち,自分たちの取り分(先納米か,御用米の返済分)を勝手に持ち出そうとしたのが発端となって,領内一円に不穏な情勢がみなぎり始めました。

《目次へ》


(2)山中の農民立ちあがる

11月24日(西暦 1726年 12月 17日),江戸から「領地を半分の5万石に減らす」という知らせが津山に入りました。津山藩は,自分たちの支配からはずされる領地は,真島・大庭の両郡と判断しました。領地を取り上げられる前に今まで納めさせていた年貢米を自分たちのものにしておこうと,28日(西暦 1726年 12月 21日),久世の米倉から米を運び出そうとしました。ところが,それを察知した農民たちが,激しく追及してきたために藩は中止するといってその場を収めていました。しかし,それは表向きであり,藩は翌朝,農民との約束を破りこっそりと船で年貢米を運び出してしまいました。

これを知った農民たちはいよいよ藩に対する不信を爆発させ,「12月3日(西暦 1726年 12月 25日)に久世に集結すること」を告げる天狗状が村村にまわされた。当時交通が不便であったにもかかわらず,異常な速さでこの天狗状が伝達されたことは,一揆の縦と横の連絡がよくできていたことと,この地方が「製鉄の中心」であり,製鉄集団の組織(蹉跌取り,炭焼き,きこりなどの組織)が役立ったのではないかと考えられています。

真島郡牧村(今の湯原町牧)の徳右衛門,見尾村(今の勝山町見尾)の弥次郎らに率いられた3000〜4000人の山中勢は,手に手に猟銃・竹やり・鳶口(とびぐち)(まさかり)などを持ち,久世に押し寄せ,里方の一揆勢と合流し,実力をもって久世の米倉(郷倉)を管理するとともに,近辺の大庄屋・中庄屋などの屋敷を打ち壊してしまった。

この知らせが津山に伝わると,城中では,緊急の評定(ひょうじょう)(会議のこと)が開かれました。しかし,すでに東筋(美作東部)の村村にも久世の状況が伝わり,領内全土に一揆が起こりかねない状況になってきました。そこで藩としては,一揆側を刺激しないで,西筋を収めるほかに方法はありませんでした。大庭郡代官の山田丈八と真島郡代官の三木甚左衛門が西筋に派遣され一揆側と交渉することになりました。

農民側の要求は,次のようなものでした。
@年貢の未納分の14%は納入を免除すること
A四歩加免(しぶかめん)は免除すること
B大庄屋から借りて払った年貢米を免除すること
C米以外のいろいろな名目の税金(諸運上金)を廃止すること
D藩が任命する大庄屋・村庄屋を廃止して,農民が選んだ状着(農民代表)を置くこと
E大庄屋・中庄屋・村庄屋に与えられた特別の権益を廃止し,諸帳簿を農民に渡すこと

以上のことを求めた農民側と藩代表者との交渉は,数日に及びました。この結果,農民側は,Cを除いて,ほとんどの要求を勝ち取りました。


(3)武士と農民の闘い

その後も,山中地方では,大庄屋以下の不正を摘発する闘争が続けられたため,藩当局は救済用の米切手1,100俵分を与えて農民を押さえようとしました。ところが,農民たちは,米切手を米に引き換えないとただの紙切れになってしまうことに気づきました。藩と関係なくなってしまえば,藩に要求することができないからです。そこで,農民たちは,大庄屋や富商の家に押しかけて米の引渡しを求め,応じなければ打ちこわしをかけた。恐れた大庄屋たちは津山城下へ逃れ,藩当局へ「このままでは,山中は農民のものになる。」と訴えました。

そこでついに,津山藩は幕府の了解を得て一揆の全面的弾圧に乗り出していきました。目付の山田兵内および三木・山田両代官の率いる,大砲・鉄砲で武装した1,100人の藩兵を山中地方へ出動させました。一揆側は地理に詳しく神出鬼没のゲリラ作戦を取るので,藩兵側も苦戦を強いられました。

 このままでは,藩の面目丸つぶれであると,ついに鉄砲組みの一隊を遠回りさせて一揆勢を包囲して背後から攻撃してきました。久世の三坂峠から湯原への侵入が不可能なことを知った鎮圧隊は、享保12(1727)年正月7日(西暦 1727年 1月 28日)には、一揆勢の意表を突いて出雲街道から山中の裏側の美甘・新庄に向かって来たのです。そこで、田口村で一揆の指導者の三郎右衛門・長右衛門の2人を捕らえ、新庄に入ってきました。新庄からの知らせで、三坂峠に陣取っていた徳右衛門・弥次郎・半六らは、美甘方面からの鎮圧隊に黒田村で備えるという二面作戦を強いられることになりました。

 黒田村で代官は一揆の農民たちに「飛び道具を持って役人に向かうのは、殿様に逆らうのと同じである。すぐに鉄砲を捨てなければ、後ろから軍勢を持って討ち取るぞ。悪者に脅されている者は、殺すに忍びない。今のうちに逃げれば罪は問わない。逃げなければ、たとえ山中に人がいなくなろうともとらえて処罰する。」と脅しました。さらに百姓たちの女房子どもを人質にして矢面に立てるというなりふりかまわない卑劣な作戦を取った。代官は指導的な立場のものの中から藩に協力する者を探す作戦に出ました。その結果、新庄村の状着・利左衛門と美甘村の状着・治八は、代官の脅しと利益誘導によって藩に協力するようになりました。こうしたことから一揆勢の足並みは急に乱れ,味方の裏切りや大庄屋の内通もあり,一揆勢に不利になっていきました。

 一揆勢は、黒田方面、三坂方面、久世から帰路峠を超えて山久世に出て旭川を上る川筋の三方面からの攻撃を受けることになりました。徳右衛門の弟・惣右衛門は、川筋の村村に11日(西暦 1727年 2月 1日)に久見河原に総勢を結集しようと呼びかけていきました。ところがその結集は期待はずれとなりましたが、それに遅れた奥山中の大森の七左衛門らの結集や湯本・下長田の村村の加入、弥次郎を中心とする川筋の結集などにより、13日の行動を起こせる機運となりました。

 その状況が代官側に通じ、代官側もすばやく12日夜には行動を起こしました。まずは、先に捕らえていた田口村の2人と新庄村の3人新庄の今井河原で処刑し、その首を首切り峠などにさらして農民たちを恐れさせました。また裏切り者に案内させ土居村に入り徳右衛門を捕らえようとしました。柿の木坂に潜伏している徳右衛門を発見し、「牧の徳右衛門、早く出てこい」と呼べば、連日の疲れで徳右衛門ももはやこれまでと覚悟し「これから出るぞ」と答えて、山刀を抜いて飛び出しました。こうして、徳右衛門が捕らえられただけでなく、雪の土居村に宿泊していた大森の喜平次の率いる奥山中の一隊など32人が捕らえられました。12日(西暦 1727年 2月 2日)の大雪の夜,徳右衛門らのリーダーが捕らえられるに及んで一揆勢は総崩れとなって行きました。

 13日の朝とともに、久世・新庄の鎮圧隊は、山中に入ってきました。久世の主力は、三坂峠と川筋から大筒で空砲を撃ち農民たちを脅しながら攻めてきました。昼頃、小川村に着いた久世の鎮圧隊は、新庄からやってきた代官の一隊と合流しました。それでもこの戦闘集団は、一揆勢を恐れ、さらに殺人を強行しました。昨夜、土居村で捕らえた32人のうち25人を土居中河原で打ち首にしました。その13人の首を三坂峠にさらし、12人を川筋から久世に越える主要街道である山久世の帰路峠にさらしました。徳右衛門と土居の忠右衛門、大森の喜平次は首謀者であるのでこの場で処罰せず、残りの4人は釈放されました。

 14日には、偉大なる一揆の指導者である徳右衛門と喜平次の2人は、かごで津山に護送されました。この頃から、庄屋たちによる農民の摘発が盛んになりました。見尾の弥次郎も中庄屋の密告で見尾村の聖岳(弥次郎嶽とも)に隠れているところを捕らえられ、徳右衛門の弟の惣右衛門も同様の運命にありました。相次いで指導者を失った農民たちを、付近の25カ寺やお宮がかくまいました。15日には大森の七左衛門が捕らえられ、17日(西暦 1727年 2月 7日)に弥次郎・忠右衛門とともに津山に送られました。

 19日(西暦 1727年 2月 9日)には下長田が破れ、20日には最後まで抵抗した里方の目木触・河内触が鎮圧され、3ヵ月に及んだ一揆は農民側の敗北に終わりました。しかし鎮圧隊の人殺しは続きます。25日(西暦 1727年 2月 15日)、湯本大庄屋預かりの8名が、湯本河原において処刑されました。その首は田羽根の熊居峠にさらされました。それから1週間ほど後の閏正月2日(西暦 1727年 2月 22日)に、久世河原において西筋里方の指導者が7名斬首されました。

 この結果、村村の農民たちは「今後このようなことは絶対にしません」と詫びの証文を取られ四歩加免以外は認められず、とり返した米も返納させられました。さらに状宿・状着の制度は廃止され、再び庄屋制が復活しました。

 3月12日(西暦 1727年 5月 2日)、津山に送られた27名のうち6名が、正式の裁判により処刑されました。徳右衛門・弥次郎は津山を引き回しの上、院庄の滑川の刑場においてにされました。東茅部大森の七左衛門と富東谷の与七郎が獄門にされ、土居の忠右衛門と大森の喜平次とが打ち首にされました。この山中一揆で犠牲になった人は、51名という驚くべき多数に上り、一揆史上類例を見ない結末を告げました。この年の5月、山中は天領となりました。

《目次へ》


5.山中一揆の犠牲者

山中一揆の処刑者一覧 犠牲者総数 51名
処刑年月日 処刑場所 処刑方法 処刑人数 居住地 犠牲者名 法名 史跡
享保12年旧正月12日(西暦 1727年 2月 2日) 新庄村今井河原
(現・新庄村)
斬首 5名 新庄村 久太郎道学
 
与三兵衛
(与兵衛?与惣兵衛?)
道魂
 
六  八道花
 
田口村三郎右衛門
 
義民長右衛門
三郎右衛門之墓
(田口村)
長右衛門道春
享保12年旧正月13日 土居中河原
(現・湯原町)
斬首 25名 種村大平衛
太兵衛?
正法
 
平兵衛永正
 
七兵衛
七郎兵衛?
永心
 
善六善心三倉の善六みさき
三右衛門忍秀
 
西茅部村太郎兵衛
 
西茅部
義民二十人の墓
(田部)
三蔵
 
六兵衛
 
市蔵
 
勘四郎忍休
市兵衛
 
平助忍明
長八
 
仁蔵
 
長兵衛忍正
三右衛門忍枝
与助忍矛
松太郎
 
長蔵
 
与治兵衛忍宗
三九郎
 
長助正法
又兵衛 /笠木義民の墓と位牌の写真(スライドショーで8枚)忍達
忠右衛門
 
下見村孫四郎
 
 
享保12年正月25日(西暦 1727年 2月 15日)湯本下河原
(現・湯原町)
斬首8名茅森村与助
五助?
即転
 
下和村喜兵衛
 
 
中福田村甚九郎浄入
 
新庄村忠助
 
 
鉄山村七郎兵衛道鉄鉄山の剣のみさき
美甘村長三郎道泉
 
真賀村善兵衛
 
 
西茅部村治郎右衛門
治郎兵衛?
忍了西茅部
義民二十人の墓
(田部)

社田の墓標
享保12年閏正月2日(西暦 1727年 2月 22日)久世河原
(現・久世町)
斬首7名樫村新兵衛
徳兵衛?
道全樫村の道全の供養塔
与三兵衛道見
 
上河内村権兵衛
 
 
赤野村喜一郎
 
円融寺(落合町上河内)
に過去帳
西原村嘉右衛門
加右衛門?
忍空善福寺(落合町古見)
に過去帳
田原村茂七郎空剱
小川村太郎右衛門
 
 
享保12年3月12日(西暦 1727年 5月 2日)津山院庄
滑川刑場

(現・津山市)
討ち首2名東茅部村喜平次
喜兵衛?喜平治?
滞頒大森義民父子の祠
七左衛門の子
16才
土居村忠右衛門道責
 
獄門2名富東谷村与七郎道入
 
東茅部村七左衛門
七右衛門?
円照大森義民父子の祠
喜平次の父
2名見尾村弥次郎終青弥次郎の碑と忠犬塚
弥次郎嶽
滑川の処刑
牧村徳右衛門清眼徳右衛門御前(みさき)さま
柿の木坂
滑川の処刑

上の表の法名は昭和31年4月に山中一揆義民顕彰会が作成した『概略 山中一揆』に大林寺の大供養塔に刻まれているものとしてあげられているものを掲載した。ところが、昭和57年の冊子『山中一揆』にまとめられている名前とが大きく違っているものもあり、空白にせざるを得なかった。以下、名前が異なっていて上の表の中に記入できなかった氏名と法名を昭和31年の冊子にもとづいてまとめてみる。

没年月日13日正月25日閏正月2日
村名西茅部村笠木村下見村西茅部村河内村小川村赤野村
氏名善右衛門七郎兵衛治郎平兵衛六六彦右衛門忠兵衛吉兵衛治八三十郎忠兵衛孫四郎太郎兵衛善三郎五兵衛藤三郎
法名忍覚忍空忍尺正本忍空忍応忍退忍融忍光正栄利説浄円玄春覚心道青道儀

《目次へ》

6.
山中一揆ゆかりの地

ここでは、ゆかりの地をあげるとともに、その写真をいっしょに載せる予定でありますが、写真がまだ掲載できていないところもあります。


(1)柿の木坂

旧土居村。現在の湯原町禾津。徳右衛門が捕らえられた地。現在、義民顕彰碑が建てられている。山中一揆義民之碑〜徳右衛門の碑の写真

(2)弥次郎嶽

聖岳ともいう。現在の勝山町見尾。山中の洞窟に隠れていた弥次郎に犬が食べ物を運んでくれていたことから発見され捕らえられてしまう。見尾の弥次郎碑と忠犬塚

(3)三坂峠

湯原町から久世に抜ける峠。土居河原で斬首になった者のうち、13人の首がここで獄門になった。首切り峠ともいう。首のない一基の石地蔵が祭られている。

(4)帰路尾峠

勝山町山久世から久世に抜ける峠。土居河原で斬首になった者のうち、12人の首がここで獄門になった。

(5)熊居峠

湯原町から中和村に抜ける峠。湯本河原で斬首された8人の首がここにさらされた。

(6)首切り峠

勝山方面から美甘村に入っていくとこの峠がある。新庄村の今井河原で斬首された5人の首が、この峠にさらされた。名もない百姓25人が斬首され、さらし首にされたともいわれる。首切り峠(美甘村)の写真

(7)弥次郎の碑と忠犬塚

見尾(勝山町)の弥次郎の碑と忠犬塚(写真スライドショー)

首謀者として磔になった弥次郎の顕彰碑は勝山町の見尾にあります。弥次郎の碑の右下の小さい石碑が忠犬塚です。一揆の参謀長であった弥次郎は、徳右衛門が捕らえられても聖岳の洞穴に潜んで再起を図り、この穴に忠犬が食事をひそかに運んでいたといわれます。

(8)滑川の処刑

徳右衛門・弥治郎の処刑が『作陽乱聴記』にこのように出ています。決まりにより2人を大きな牛に乗せご城下の町内を引き回した。そのとき、徳右衛門は弥次郎に声をかけて励まし、自分は謡曲を口ずさみながら刑場に着いた。刑場には12間の小屋を作り役人が30人、それに足軽など18人が準備を整え、厳しく警戒していた。やがて役人が決まりにより処刑を行うよう申し渡し、磔にかけた。弥次郎がまず処刑され、いよいよ徳右衛門の前に槍が構えられた。「しばらく待て」と磔の上から声がかかった。「何か」と尋ねると、「気楽に受け答えの声ををかけてやろう、つくときは声をかけてこい」と。それではと「左から参るぞ」といえば「合点」と答えて穂先を受けた。ついで「左より参るぞ」といえば、「覚えたり」と答えて両脇に槍を受けた上、さらに「とどめに参るぞ」といえば、気丈にも応答の声が聞き取れた。それを見た群集は「さても大丈夫なるかな」と感嘆の声を上げた。津山市院庄・首無し地蔵の写真

(9)徳右衛門御前(みさき)さま

湯原町牧の国道べりに徳右衛門の墓石がある。「清眼則勇信士」と刻まれた石碑は、嘉永年間、郷土の大庄屋、庄屋、年寄などがその特をたたえて建立したもので、従来の「清眼信士」に「則勇」を加えて昇格追号したものである。山中一揆義民之碑〜徳右衛門の碑の写真

(10)清水寺の供養塔

土居中河原で処刑された25名の菩提を弔う石碑が、昭和40年に処刑地と考えられる禾津の川の中から発見され、湯原町久見の清水寺の境内に祭られている。碑には
過去亡霊二十五人為菩薩
供養 大佛頂陀羅尼一万八千遍誦之
乃 至 法 界 平 等 利 益
(裏)享保十二年未天正月十三日 清水寺

と刻まれています。山中一揆義民之碑〜徳右衛門の碑の写真

(11)西茅部義民二十人の墓

川上村西茅部の田部にお堂があり、その境内に一揆の犠牲者20体の墓碑があります。土居河原で処刑された25人のうち、西茅部(笠木も含む)の村人が実に19人もいました。さらに湯本河原の8人の処刑者のうち1人が西茅部で、この部落の犠牲者は、20人にも及びました。20体の石碑は、各所にひっそりと祭られていたものが、集められたようです。

(12)大森の義民父子の祠(ほこら)

川上村東茅部の大森に庚申堂がある。その一隅に七左衛門・喜平次父子を祭る祠がある。父の七左衛門は奥山中の総大将格で、16歳の喜平次は総大将徳右衛門の幕僚として活躍した。父子はともに津山送りとなり、津山で処刑された。川上村では、村村の救済に身をささげた父子を顕彰するためにこの地に移し、史跡として指定し供養を続けている。
大森の義民父子の祠(ほこら)の写真(スライドショーで15枚)

(13)大林寺の妙典塚<./a>

湯原町黒杭の大林寺にある大供養塔で、湯原町の指定文化財になっている。
(碑の正面)大乗妙典書写一石一部塚
(碑の裏面)享保十二丁未年九月教主
(碑の台石)享保十二年正月十二日・十三日
処刑者の法名と俗名
苔むして文字は明確でないが、菩提を弔う人々は津山藩の暴政の犠牲者であると刻まれている。この供養塔ができたのは、天保4年(1833年)で一揆から100年ほど後だが、この塔を建立した大林寺の和尚は建立年月日を享保12年9月として藩の役人に見せ、本当の年月日は別に建てた石の地蔵さまに残している。刻まれた犠牲者の名前は50名といわれ、51名の犠牲者に1名足りませんが、よく調べられ山中一揆の犠牲者全員の慰霊碑といえます。台座に刻まれた正月12・13日は一揆の中で藩が最も狂暴に30名もの人を処刑した日です。

(14)鉄山(かなやま)の剣のみさき

美甘村鉄山の大槌に湯本下河原で処刑になった七郎兵衛を祭ったものです。この祠のそばには大正15年に建てられた200年際を記念する石碑があります。命日の正月25日には毎年祭礼が行われています。樋口克治さん方に七郎兵衛夫妻の位牌とお墓があり、次のような悲しい話が伝わっています。
七郎兵衛が大寒から取り調べのため呼び出された日、妻きくの作る弁当のにぎり飯が固まりません。不吉な予感にきくは夫の出立を見合わせるように頼みましたが、お上の御用なのでどうすることもできません。七郎兵衛は出ていったまま、湯本下河原にてついに帰らぬ人となりました。そして七郎兵衛の首は、田羽根の熊居峠にさらされました。これを聞いたきくは、嘆き悲しみ、思いつめて、夜ひそかに熊居峠に夫の首を盗みに行きました。聞くは夫の首を手桶に入れて持ちかえり、墓に埋めて供養しました。2月6日、きくは夫の墓前で覚悟の自害を遂げました。

(15)萩原の万霊供養の道標

湯原町見明戸の萩原地区のはずれ、大山方面と美甘方面に分かれる旧道の分岐点に、自然石に「萬霊 右 大山みち 享保十三年申三月十二日」と読み取れ施主として三人の名が刻まれている。この日付は徳右衛門ら6名が津山で処刑されたときからちょうど1年を経過した日にあたります。一揆の犠牲者を供養するためと定かに記されていないが、その意図を秘めた道標といわれています。だから「萬霊」と刻んで犠牲者の供養をと考えられます。ここからしばらく西に行くと美甘村の黒田です。黒田は徳右衛門ら500人の一揆勢が新庄からの鎮圧隊の侵入に備えたところです。

(16)社田(こそだ)笠木の墓標

川上村西茅部の社田地区に自然石の墓標がある。
「刃了禅定門 享保十二年一月十三日」
と刻まれています。社田義民の墓の写真(スライドショーで10枚)
また川上村笠木にも
「刃光信士」
と刻まれた墓標があります。法名に「刃」の字のあることから、明らかに打ち首になった農民の墓であることがわかります。社田の墓は湯本河原で処刑になった治郎右衛門といわれていますが、日付は違います。笠木のは土居河原で打ち首になった又兵衛の墓です。「刃」という字がやいばのごとく私たちの胸を打ちます。笠木義民の墓と位牌の写真(スライドショーで8枚)

(17)三倉の善六みさき

土居河原で処刑になった善六を祭っている。湯原町種

(18)樫村の道全の供養塔

久世で処刑された樫村の新兵衛の供養塔。道全は法名。久世町樫村


以上の4.5.6の記述は、山中一揆義民顕彰会(湯原町教育委員会内)編集『山中一揆』(昭和57年5月2日)を引用させていただきました。
《目次へ》

7.
庄屋と百姓

(1)大庄屋

森藩時代から、この地方では大庄屋による支配の体制が取られ、松平氏もこれを引き継いでいった。大庄屋は石高およそ5000石ごとに置かれた。
大庄屋以下の役人の関係は次のようになっていた。
大庄屋⇒中庄屋(肝入)⇒庄屋⇒組頭⇒百姓代
真庭郡内に置かれた大庄屋は、次の通りである。
1698(元禄11)年 津山藩大庄屋触の編成(『久世町史』より)
現在の郡江戸時代の郡触の名触の規模大庄屋名大庄屋の居村の現在地
組下村数石高
真庭郡大庭郡河内触16か村6,538.683石近藤忠左衛門真庭郡落合町
目木触17か村7,128.505石福島善兵衛真庭郡久世町
湯本触22か村6,684.707石美甘三郎左衛門真庭郡湯原町
真島郡三家触24か村4,983.509石進 五左衛門真庭郡湯原町
小童谷触14か村6,327.006石(宍戸喜右衛門)真庭郡湯原町

各触の村の帰属については、久世町史をもとにして地図を作製
  • ◆真島郡の南部はこの時、天領になっていたため大庄屋は置かれていなかった。
  • 真庭の各村の石高、戸数、人口、一人当たり石高、山中三触(湯本・小童谷・三家)の合計. 山中一揆の村別処罰者数(PDF 84kb)
  • 新庄村に限ってみると、大庄屋が時代によってコロコロと変わっている。

    新庄村の大庄屋の変遷

  • 寛永2年(1625)森家が美作全体に51人の大庄屋を置いて民政諸般の事務にあたらせた。
  • 寛永11年8月(1634)真島郡高田村の田中氏に属す(高田触)
  • 寛文元年10月(1661)高田村兼田市郎左衛門に属す。(金田?)
  • 延宝元年(1673)高田村田中九郎左衛門に属す
  • 元禄2(1689)高田村九郎左衛門(内田宮司文書)
  • 元禄3(1690)高田村田中徳左衛門
  • 宝永3年5月(1706)小童谷村の宍戸喜右衛門と触が高田触から小童谷(ひじや)触と改められた。
  • 元禄10年(1697)森家は国除となり、10月11日、美作(作州)は全く幕府の領する所となり大庄屋制は廃止された。この廃止時に新庄村の大庄屋は小童谷村宍戸氏。
  • 元禄11年正月14日(1698年2月24日)松平長矩が美作の内10万石を領すると新庄村はその領地となり、再び大庄屋制度によって三家村の進氏に帰属する。この進氏は赤松氏の子孫で真島郡第一の旧家と称される。小童谷村の宍戸氏は松平氏入封するも起用されず廃されたまま三家触に属した。
  • 元禄12年3月(1699)小童谷触取立てとなり、宍戸氏は再び大庄屋に就任し、新庄村は再び小童谷村宍戸氏に属す。
  • 享保3年8月(1718)の記録は大庄屋宍戸喜右衛門となっている。
  • 享保10年から11年(1725〜26)の山中一揆のあったころは三家村進五左衛門になっている。
  • 享保12年(1727)真島郡は天領となり大庄屋は廃止された。その後、天領約50年間、明和元年(1764)勝山に三浦氏が入封したが大庄屋制は行われなかった。

    以上、『新庄村史 前編』P87参照

  • (2)庄屋

    村方の行政上の運営の一切は、庄屋の責任で取り扱われた。
    その仕事は、
    @法令・触・状の伝達
    A年貢の割り振り。
    B年貢の納入。
    C宗門改め、五人組改め。
    D百姓同士の土地売買や、質入に際して庄屋の奥印が必要。
    E百姓から領主への訴願には、庄屋の添判が必要。
    結局のところ庄屋の立場は、「百姓役ながら政事にかかわり、上の役人の口真似もいたす。」(地方凡例録・下巻)ものとされた。

    (3)組頭

    庄屋の補佐役。
    「百姓の内、筆算いたし、人品よろしく、高も相応に持ち、用立つべきもの」(地方凡例録)

    (4)百姓代

    百姓の代表。
    元禄ごろまでに設けられる。一般百姓の村政への発言力が強くなってきたことを背景に出現する。数は1〜2名。

    (5)農民の階層分化

    @摂津国東成郡小坂村の例

    本百姓の分解の様子がよくわかる。(古島敏雄・永原慶二著『商品生産と寄生地主制』より)
    農家数の比率耕地所持高の比率
    農民層
    年代
    小農
    (5石以下)
    中農
    (5〜20石)
    上農
    (20〜30石)
    大地主
    (30石以上)
    小農
    (5石以下)
    中農
    (5〜20石)
    上農
    (20〜30石)
    大地主
    (30石以上)
    1607(慶長12)年15.2%72.7%9.1%3.0%1.1%70.5%15.4%12.8%
    1657(明暦3)年17.2%65.6%8.5%8.7%2.6%40.8%12.6%43.9%
    1730(享保15)年43.1%48.3%6.8%1.7%6.7%63.4%20.9%9.1%
    1841(天保12)年60.9%26.1%8.7%4.4%11.0%23.4%21.1%44.7%
    1871(明治4)年66.9%24.3%3.0%6.0%6.6%16.3%5.1%71.8%
    以上のように、時代とともに中農から小農へ分化していくようすがうかがえ、農民の生活が次第に苦しくなっていく様子がわかる。また小中農あわせて90%近くの農家でわずか30%ほどの土地しか所有していないこともわかる。これは、摂津国の資料だが、美作地方でも似たような状況であろう。

    A湯本触のようす

    湯本村大庄屋美甘氏の管轄地の様子を見ると次のようである。時代を追ってということにならないが、@の他の地方のようすとあわせて考えれば、これがさらに分化していきそうなことも予想がつく。
    湯本触(湯本村大庄屋・美甘氏の管轄地)(『岡山県の歴史』)
    年代触内の村の数触内の戸数うち本百姓名子・家来
    1697(元禄10)年23か村989戸208戸(21%)711戸(72%)
    元禄のこの時点で、すでに名子・家来と呼ばれるものが7割以上を占めている。
    名子
     津山藩では、1678年の法令で、持ち高10石以下の者は百姓名義の者の「名子」となり、逆に1790(寛政2)年には、持ち高10石以上になったものは、「名子抜け」させ、一戸前の本百姓と認められていた。
     名子は名親から耕地・採草地はもちろん、住居、屋敷、諸道具など一切を貸し与えられ、凶年には生活の援助も受けた。これに対し、名子は、主家の農作業、家事手伝い、生活のあらゆる面で家族ぐるみで奉仕するなど、名親に対して身分的に隷属していた。(『岡山県大百科事典』)
    《目次へ》

    8.山中一揆前後の領地地図

    (1)森家津山藩(慶長8.2〜元禄10.8、1603〜1697年)

    (2)真島郡と大庭郡

    (3)森家断絶後の天領時代(元禄10.8〜元禄11.1、1697〜1698年)

    (4)松平家津山藩と天領時代(元禄11.1〜享保12.5、1698〜1727年)

    (5)山中一揆後の天領時代(享保12.5〜延享3、1727〜1746年)

    (6)竜野藩に一部割かれる時代(延享3〜明和元、1746〜1764年)

    (7)三浦家勝山藩が誕生(明和元.6〜文化9、1764〜1812年)

    (8)大庭郡が津山預りとなる(文化9〜文化14、1812〜1817年)

    (9)大庭郡が津山藩に組み込まれる(文化14〜天保8、1817〜1837年)

    (10)津山藩預りの天領に(天保8〜慶応4、1837〜1868年)

    (11) (2)〜(10)までを通して

    《目次へ》