山中一揆は日本一揆史上、まさに一揆といえる

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国士舘大学保坂智教授は、江戸時代の一揆は一揆ではない。「一揆」は領主に敵対するものでり、掃討される対象である。岡山県で起きた山中一揆はまさに一揆という性格を持っていた。だから、一揆の最中から次々と吟味されることもなく、処刑されていったのだ。
岡山県では山中一揆の後、磔という極刑はない。刑はしだいに軽くされる方向へ流れていった。ただし、郡上一揆など数件で磔が行われたに過ぎない。山中一揆の吟味も行われず処刑された45名は藩の敵として殺されたのだ。
多くの百姓一揆で庄屋を替えろという要求は多い。しかし、山中一揆で惣代・状着を要求しており、百姓が作ったシステムで管理しようという状着しすてむは他に例がなく、山中一揆後、しばらく続いていく。この「状着」を何と読むかだが、「上付」という表記の文書もあり「じょうつけ」と読むのが良いのではないか。
津山藩から分離した山中地域を実質的に在地管理したが、惣代や状着制はその基盤となった。このような在地管理システムまで達成できた一揆は日本で唯一といってもよい。
この山中一揆は現在の岡山県北部の真庭市、新庄村で起きた一揆です。蒜山、湯原、美甘、新庄という広い地域の農民たち51名もの人が処刑され、義民として今も地元の祭りなども行われている。