山中一揆講演会と新庄宿、津山瓦版

津山瓦版に「新庄村の脇本陣へ見学に行って来ました。」の記事。山中一揆と新庄宿、六十六部廻国碑、脇本陣木代邸の記事が掲載されました。https://www.e-tsuyama.com/report/2018/12/mt-preview-74fb0f3c4b448242c727316540d40a393d9ac345.html

津山教育事務所主催で美作地区の文化財保護委員さんなど60名ほどが参加される研修会が10月2日に新庄村公民館で開催され、その時の講師を務めさせていただきました。その時、参加されていた津山瓦版の方が、12月23日に記事にしてくださいました。

講演のテーマは「山中一揆」。新庄村と山中一揆との関わりを含めながら約1時間の説明を行い、そのあと、出雲街道新庄宿の案内とともに、六十六部廻国碑の説明をさせていただきました。さらに脇本陣木代邸の説明もさせていただくことができました。

十分な説明にならなかったかもしれませんが、良い経験をさせていただきました。

 

文化財保護研修会で山中一揆について説明

10月2日に行われた津山教育事務所主催の文化財保護委員さんら60名ほどの参加者を前にして、山中一揆について説明をさせていただき、その後、山中一揆で最初の処刑地となった新庄村今井河原と関連すると思われる六十六部廻国碑の案内、さらに江戸時代の松江藩の宿場の脇本陣の説明をさせていただきました。
津山教育事務所のホームページ内にその紹介があったので、その写真とPDFのリンク先を掲載させていただきます。

http://www.pref.okayama.jp/uploaded/attachment/243320.pdf

山中一揆史跡を電子国土地図で表示

山中一揆に関係した地図を今までも、GoogleMapやBingMapや地形図などで表示してきました。かつて国土地理院の地形図を利用して作成していたページが、地理院のシステム変更により表示できなくなっていたので、新たに作成したのが次のようなページです。

山中一揆関係地図~電子国土地図

です。

今までの地形図は25000分の1の地形図でしたが、ここでは拡大縮小も可能です。国土地理院に使用申請中。

江戸時代の百姓一揆の推移

一口に百姓一揆といっても、その形態はさまざま。

真庭で起きた山中一揆はその中でも「蜂起」と呼ばれる形態です。

緩やかなところから揚げると、愁訴、逃散、越訴、不穏、打ちこわし、強訴、蜂起となります。

山中一揆やこの形態については
http://www.can-chan.com/santyuu-ikki.html
「山中一揆」のページをご覧ください。

横山十四男著『百姓一揆と義民伝承』の中に40~50年間の区切りにこれらをまとめた表があり、それをグラフ化してみたのが下の図です。

山中一揆は、享保・宝暦の50年間に起きた11件の蜂起の中の1つということが分かります。

また8代将軍徳川吉宗の享保年間の時期から急激に一揆が増大し打ちこわしや強訴や蜂起など力強い農民の孝道が感じられるようになります。

江戸時代の一揆の件数

山中一揆は日本一揆史上、まさに一揆といえる

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国士舘大学保坂智教授は、江戸時代の一揆は一揆ではない。「一揆」は領主に敵対するものでり、掃討される対象である。岡山県で起きた山中一揆はまさに一揆という性格を持っていた。だから、一揆の最中から次々と吟味されることもなく、処刑されていったのだ。
岡山県では山中一揆の後、磔という極刑はない。刑はしだいに軽くされる方向へ流れていった。ただし、郡上一揆など数件で磔が行われたに過ぎない。山中一揆の吟味も行われず処刑された45名は藩の敵として殺されたのだ。
多くの百姓一揆で庄屋を替えろという要求は多い。しかし、山中一揆で惣代・状着を要求しており、百姓が作ったシステムで管理しようという状着しすてむは他に例がなく、山中一揆後、しばらく続いていく。この「状着」を何と読むかだが、「上付」という表記の文書もあり「じょうつけ」と読むのが良いのではないか。
津山藩から分離した山中地域を実質的に在地管理したが、惣代や状着制はその基盤となった。このような在地管理システムまで達成できた一揆は日本で唯一といってもよい。
この山中一揆は現在の岡山県北部の真庭市、新庄村で起きた一揆です。蒜山、湯原、美甘、新庄という広い地域の農民たち51名もの人が処刑され、義民として今も地元の祭りなども行われている。