浄土宗摂取山念佛寺とフォルクローレ

新庄村の紹介


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    今までたくさんのページを作成しながら、新庄村についてまとまったページを作っていなかった。新庄村に関わることには触れながら、自分自身わかっていないことも多かった。新庄村に関わって発行されている新庄村史や公民館等から発行された小冊子を参考に少しずつでもまとめていこうと思っています。

    1.合併していない村、大字のない村

    新庄村は明治以降、一度も合併が行われていません。近隣の市町村を見ても珍しい経過をたどっています。新庄村の周辺は現在、平成の大合併以降に真庭市となっていますが、新庄村だけは真庭郡新庄村です。現在は真庭郡内のただひとつの自治体となっています。

    平成の合併以前の真庭郡内にはいくつも町村がありました。その町村を見ると江戸時代にはいくつもあった「村」が明治を境に一つの大きな村や町となり、江戸時代の「村」は「大字」としてその名を留めていました。したがって、江戸時代から「新庄村」として存在していた新庄村は、どことも合併せずに明治以降も続いているので「大字」がないのです。パソコンの住所録ソフトやどこかの通販サイトなどで住所を入力していると、「新庄村一円」とか「上町」とか「幸町」「鍛冶屋」などと選択しないと次に進めない例もありました。まるで「一円」とか「上町」とか「幸町」「鍛冶屋」という大字があるのかと誤解を与えそうです。「一円」というのは「全体」という意味なのでしょうし、「上町」とか「幸町」「鍛冶屋」などは村内にある行政区の呼び名で「大字」でもありません。新庄村は江戸時代から新庄村ただひとつなのです。

    2.がいせん桜

    がいせん桜は、新庄村で一番の観光名所です。上の御幸橋(みゆきばし)から宝田橋(ほうだばし)との交差点までの400mの間がソメイヨシノの桜が通りの両側に植えられています。

    この通りを「がいせん桜通り」と呼んでいます。この桜が植えられたのは、日露戦争(明治38〜39年、1904〜05年)の戦勝記念、凱旋を記念して植えられたものです。第5代・佐山慶一村長の時の1905年12月5日の村議会で「日露戦勝の思い出になり、風景もよくなるし、衛生的にも役立つ」ということで桜の植樹が決められました。翌年には、200間(約400m)の長さで3間(約6m)おきに両側に植えられたものが137本(2016年4月現在132本)ありました。春はピンクから白色の花が「岡山県で最後の桜の名所」として4月の10日前後から20日前後の時期に咲きほこり、夏は緑いっぱいの青葉となり町並みは木陰に包まれます。秋は桜の葉が黄色から赤色へと変わり見事な紅葉が彩ってくれます。葉も落ちてさびしくなった木々には冬の雪が白い花を咲かせ、風により舞落ちる切片が春の花が散るようにも見えます。

    「メルヘンの里新庄ー歴史と文化」(新庄村教育委員会、1997年増改訂第3刷)には

    「町上みの川のほとりには念佛寺がある。日暮れ時ともなれば、夕ぺの鐘の音が響き、らんまんと咲いた桜が、ハラハラと落ちるそのさまをみて、一亭の句に

    梵鐘の余いんに桜こぼれ落つ

    というのがある。

    家並みの前は、きれいな小川で「せせらぎ」があり、鯉もおよぎ秋になれば、小さな水車が音をたて、そこここでまわるのである。

    また、中尾煌皚さんの漢詩では

    誰知昔日凱旋桜 摂取鐘声一片情

    永禄抗争城趾在 雲州本陣鯉魚庄

    」(以上、「メルヘンの里新庄ー歴史と文化」P18)

    3.木代邸

    木代(きしろ)邸は出雲松江藩松平氏の参勤交代の宿場町が新庄宿であり、新庄宿の中で脇本陣となっていた。本陣は斜め向かいの屋号「御茶屋」に「本陣跡」の案内がされている。松江藩松平氏は徳川将軍家の流れをくむ譜代大名でもある。

    松江藩の参勤交代の宿泊は

    1.松江発ーー2.溝口ーー3.新庄ーー4.津山ーー5.作用ーー6.姫路ーー7.大蔵谷ーー8.西宮ーー9.伏見ーー10.山崎ーー11.大津ーー12.水口ーー13.四日市ーー14.宮ーー15.御油ーー16.浜松ーー17.島田ーー18.興津ーー19.沼津ーー20.小田原ーー21.藤沢ーー22.川崎ーー23.江戸

    松江を出発して、23日目には江戸に着くという日程だったようです。

    「参勤交代と大名行列」のサイトには松江藩で参勤交代の時に江戸から持ち帰ったお菓子作りが元になって和菓子の名所(松江の町はこの頃より京都・奈良・金沢と並び和菓子の一大名所)にまで成長させた松平不昧公などの様子がかなり詳しく記述されているので以下、引用させていただきます。

    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
    参勤交代は戦陣に臨むつもりで行動するのが建前であり、行列は鉄砲、刀、弓、槍などの武器を携行した軍隊編成で行われ、武家諸法度により

    十万石以上の場合、馬上10騎、足軽80人、中間人足140〜150人。

    二十万石以上の場合、馬上15〜20騎、足軽120〜130人、中間人足250〜300人。

    松平不昧の孫に当たる9代藩主の松平松平斉貴の宿泊人数は、磐田市発行の市誌「東海道見付宿」にあり、徒士以上78名、足軽317名、計395名であり、これに徴発された人馬数は人足169名、馬40頭となっている。したがって、松江松平家十八万六千石の大名行列は約550名の規模であったようです。現在のお金に換算すると一億円程度はかかっていたようです。

    ******別のサイト「江戸紀行/意外と知らない、大名行列と参勤交代」によると
    不味公晩年の「文化年間(1804〜1818年)」では 「東海道経由 21泊22日」のコストは「約4,000両(年により増減あり)」。「1両=4,000文」「かけ蕎麦が16文だった」と伝わっているので、現代の「かけ蕎麦を200円(少し安いですが…)」として計算すると 「1文=12.5円」。現在の貨幣価値ですと 少なく見積もっても「1両=50,000円」くらいでしょうか。4,000両で、今の換算価値で2億円近く掛かっていた。 **********

    7代(明和4(1767)年〜文化3(1806)年)・松平治郷(不昧)(はるさと・ふまい)は毎年欠かさず生涯38回(19往復)の参勤交代をしている。たびたび参勤交代の軽減を求めていたが、元和7年(1621)、松江藩祖であり徳川家康の次男結城秀康の長男でもある越前松平家の松平忠直が、病を理由に幕府の許可を得ずに参勤交代を怠り、反抗的であるなどの理由で配流された経緯があり、松江藩松平家が幕府から警戒されていた事もあるであろう、と分析されている。

    「♪お江戸日本橋七つ立ち〜」の歌がありますが、当時の出発時間は暁の頃であり、朝4時〜5時頃が普通であった。(***「江戸紀行〜」***「暮れ六つ(午後6時)泊まり、七つ(午前4時)立ち」という言葉があるように、日の明るいうちになるべく歩く距離を稼ぎ、宿泊日数を減らす(従って旅費を節減する)思惑がありました。***)参勤交代の費用は莫大な金額となる為、早足でひたすら歩き続けた。列が隊列を整えるのは国許を出るとき、江戸に入るとき、大きな宿場の前後など要所だけであった。費用節減の為、歩く距離は一日35〜40Kmもの強行軍であり、駕籠に乗っているとはいえ、体調が悪い大名にとっては極めて厳しい道中であったことでしょう。

    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 以上、上記サイトを参考にしました。

    溝口(標高約70m)から新庄(標高約470m)までは四十曲峠(標高約780m)を越えて約30kmほど、また新庄から津山まで現在の国道で約50kmです。平均としては1日10里(約40km)前後の速度で体裁が悪くならない程度の旅支度で行列の間合いを取って気ままに歩いていたようです。

    4.雲州侯本陣

    案内板には

    寛永12年(1635年)に参勤交代制がきまり、出雲街道をいつも通っていたのは、松江藩松平であった。
    元禄2年(1689年)の文書「村古事名物書上ケ御帳」によると、この街並みに御茶屋一軒あり、松平出羽守が通行の折りには、毎年昼休みをされたという。
    佐藤家が松平指定の「御茶屋」になったのは、寛文6年(1666年)であり、その後の宝暦7年(1757年)に「本陣」役の請負ができた。
    この頃から松平藩は、昼休みだけでなく宿泊もするようになったのである。

    本陣

    門 玄関  書院造り 上段の間
    世襲     主人は苗字帯刀

    連絡と受人


    先触 (1回目)50日以上前
    請書      間取り図付けた請書
    先触 (2回目)2日程前
    下宿割     宿役人が人数割
    当日      定紋付幕 関札 提灯台

    と説明されている。

    本陣として御茶屋(佐藤)、脇本陣として馬場屋(木代)、本坂屋(為計田)、小松屋(進)が勤めていた。

    本陣の建物は、現在の家の裏側にあり、御殿と呼ばれていた。門があり、玄関、上段の間あったのだろう。当主は庄屋の役をしており、上下着用御免ということであり、また御用向出精ということで、苗字と帯刀御免であった。これも雲州侯の御用向きを勤めている間であるとされている。本格的に松江藩の専用本陣となったのは、宝暦7(1757)年のことであった。宿泊当日には、本陣は定紋入りの幕を張り「出雲少将宿」という宿札をかけていた。

    5.木賃宿、旅籠

    新庄の宿場にも、木賃宿と旅籠があったが、泊まりきれないときは臨時にする宿もあった。木賃宿とは、旅人が乾し飯(ほしいい)を1日2合(約300g)の割合で持って宿に着いたらそこで湯をもらって戻して食べていた。宿に湯を沸かす薪の代金を支払うので木賃宿という。その後、宿でご飯を出したり風呂にも入らせるようになり、旅籠(はたご)というようになった。

    鳥取藩の兵隊が、西京詰交代の時、260人が泊まっている。出雲屋、戎屋、馬場屋に向馬場屋、本坂屋、福島屋などに20人くらいずつ分宿し、臨時に20軒くらいの民家にも留めている。

    松江藩松平家の参勤交代のときなど、数百人もの泊まりがあり、宿場の町は大いににぎわったであろう。その時の食事などの額については藩からの通達があった。

    寛政2年(1790年)嘉永2年(1849年)
    124文180文
    100文170文
    60文72文
    湯漬35文42文

    諸色高値の折柄だから、粗末でも苦しくない。賃銭相応の物でよい、ということだった。