本日は、高校野球の準々決勝、北京オリンピックを見ることをいい加減に差し置いて、念佛寺施餓鬼会にようこそ御参詣くださいました。毎日暑い日が続き、雨がもっと降ってくれればよいのにと思っておりました。でも人間っていい加減なものですね。もっと雨が降ってくれればよいのにと思いながらも、14日の夜はさすがに「雨よ降らないでおくれ」と花火の打ち上げや盆踊りができればよいのにと思ってしまっていました。そんな人様に怒りを感じたのか、雷様が時々、真黒い雲の向こうから頭から火花を散らしておりましたね。そんな光を打ち上げ花火の合間に見ると、はらはらしながらも、雨が落ちなきゃこれまた光の共演だなんて、いい加減なことを思ったりしたものです。

オカノリ 陸海菜

満州事変から日中戦争となり、長くなっていく戦争に、「いい加減、中国も降参したらどうだ」とか心ひそかに「日本も戦争やめて、お父さんお兄さん、あなた早くご無事に戻ってきてください」と思っているうちに、太平洋戦争にまで拡大してしまいました。資源のない国日本だから、戦闘機などの鉄板の厚さを薄くすることで性能を高め、少ない資源を最大限に生かしておりましたが、それでも足らず国家総動員法による金属類回収令を発令、また翌1942年には資源特別回収実施要綱というものが各県ごとに定められ、道端に落ちている釘から家の食事作りに絶対必要な鍋釜、さらにはお寺の梵鐘まで回収していきました。その時、念佛寺で供出したのが、そちらに写真を掲示しています梵鐘です。小松屋忠左衛門さんが願いの主となって、1744年に亡くなった小松屋久左衛門さんの霊を弔うために、寄進されたようです。忠左衛門さんは1778年にお亡くなりになっているので、それ以前に作られているということになります。この久左衛門さんの御墓は新家文市さん宅の墓地の前にずらっと並んだ墓の中で一番大きく立派なのですが墓石の破損もあり倒れないかと気になっているお墓の方です。戦争が終わり、8年も経った。生活もようやく落ち着いてきて、ふと見ると念佛寺には梵鐘がない。好い加減な時期になったから檀家のみんなで苦しいけど創りなおそうということで、あの落慶法要の記念写真になったのです。私も母のおなかの中で、見ておりましたが、写真を撮るときはちょうどその母の前に父の育ての親である鳥取の願行寺の奥さんが立っていたので、どなたが写真に撮ってくださったのかわかりませんでした。でもとっても良い天気の日で午後2時ごろの撮影だからとっても眩しかったです。鐘楼を背景にして撮影しようと思うとこの時間帯が好い加減なところだったのでしょう。

日本人の死因の順位は1位がん32万6千人、2位心疾患17万3千人、3位脳疾患13万3千人となっているようです。そしてこれらはいずれも食生活や生活環境によるところが大きい生活習慣病ともいえるそうです。「大往生」の著書や「上を向いて歩こう」の作詞で知られる永 六輔さんは、がんという病名がよくない。がんて聞いただけで余計に悪くなりそう。癌じゃなくて「ぽん」と呼んだらいいんじゃない?これなら告知されても、ああそう「ぽん」なの?へ〜ってことで聞き流せそう、と諏訪中央病院の鎌田實さんとの対談で話されたそうです。永さんは他の人から猛烈な抗議を受けるようなこともあったり、その発言がいい加減な人のように見えることもあるようですが、人々が関心を持たない大切なことに目を向けさせてくれることも多い人です。また鎌田先生はがんに対しても「あきらめない」「がんばらない」を書いて、「笑うこと」「丁寧に生活する」などを説いておられます。笑うとナチュラルキラー細胞というものが活性化して免疫力を高めてくれ、がんを消失させることも可能になるということも言われています。余命3ヶ月とか6ヶ月と宣告された人が、日々笑いの中で生活するようになって、6年間も7年間も生き続けているという例もあるそうです。

オケラ (朮)

霜が降りるまでが今の葉っぱの余命というのが、寺報「摂取」第26号に載せている「クサギ(臭木)」です。この葉っぱは一度霜にあうと葉っぱが黒くなり枯れてしまう。霜が降りたかどうかを知る便利な木でもあるそうです。このクサギは、葉や茎をちぎると青臭くてどうにもならないけど、若葉をゆでてから、すぐ好い加減になるものとまだ苦いものとがあるそうですが、苦いものでもさらに一晩水にさらしておけばその苦味もなくなるそうです。そして干すことによって長期保存もでき、いろんな調理法ができる。お酒のつまみにも好い加減なものとなりますね。人っていろいろ工夫ができるんですね。

工夫と言えば(竜安寺の蹲(つくばい)に刻されている字を示し)和同開珎や寛永通宝みたいなお金のようですが、これ何と書いてあるかわかりますか。

これは「吾(われ)唯(ただ)足るを知る」と刻まれているのです。真ん中の四角は口を示しており、周りの4つの文字がこの一つの口を共通して持ち、こう読むのです。これを初めて見た時は感動しました。うまいこと考えるなあと。この写真が臨済宗妙心寺派の教徒の竜安寺にある蹲(つくばい、茶室に入るときに手や口をすすぐのに使うもの)です。何事も欲張りすぎず、ほどほどを知る、ということです。好い加減をわきまえるということでしょう。

いい加減な人生、でたらめな生活を送ってはいけませんが、苦しみや悲しみはできるだけ少なくして心と体に好い加減の、つまりほど好い楽しみや笑いをもってナチュラルキラーを活発にさせて、これからの生活を送っていきましょう。私たちの人生は生まれてからすぐ、死への道を歩んでいるともいえますが、阿弥陀仏に救われ極楽浄土に往って生まれることができると信じて、心安らかに楽しく過ごしていきましょう。

「いい加減」はデタラメ、無責任。「かげん」にアクセント。

「好い加減」は程よい。手ごろ。適当。「いー」にアクセント。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏と3回唱えることができるくらいに前の車との車間距離をとっておれば、ちょうどいい加減な距離となるようです。

最後に、阿弥陀仏の念佛衆生摂取不捨の請願を心にありがたく受け止めて皆さんとともに十念を称えましょう。